「みなとみらい21事業」は、横浜のウォーターフロントにおける新しい都心づくりです。
1965年に構想が発表された頃、横浜は高度経済成長に伴う首都東京の巨大化による急激な郊外部の住宅開発と人口増加に苦しんで いました。戦災で大半が焼失した横浜の都心は、戦後も米軍に接収されたため計画的に復興・再整備する機会を持てず、逆に商社などの 業務機能が東京に流出してしまいました。
また、横浜駅周辺が郊外部と結ぶ鉄道の結節点として急速に繁華街化し、都心が開港以来の 関内・伊勢佐木町地区と二分された状態となっていました。
このように戦後の復興が遅れ、東京のベッドタウン化を余儀なくされた横浜は1965年、こうした状況を打開し、個性ある自立都市を目指すため、相互関連性を持たせた六つの戦略的プロジェクト「六大事業」を打ち出しました。
「みなとみらい21事業」は、①都心部強化事業の中核的プロジェクトとして提案されたものです。
都心部強化事業のねらいは、開港以来の都心である関内・伊勢佐木町地区と高度経済成長期から急速に都市化した横浜駅周辺地区の一体 化と再整備にあります。二つの都心にはさまれた臨海部には、高度経済成長期に活躍した埠頭や造船所がありましたが、それぞれの機能を廃 止又は移設し、跡地に業務をはじめとした都市機能を集積させて、二つの都心を一体化・強化しようとしたものです。
みなとみらい21事業は、1981(昭和56)年10月まで「横浜都心臨海部総合整備計画」という長くて堅苦しい名前で呼ばれていましたが、1981年に横浜市が「基本計画」を発表すると同時に、事業の具体化に際して、市民や企業から分かりやすい「愛称」を募集しました。募集期間が1か月と短かったにもかかわらず、2,292点もの応募案が寄せられ、その中から、作詞家の阿木耀子氏やイラストレーターの柳原良平氏などで構成された選考委員会により、「21世紀を目指して未来の港町(みなとまち)を創り出すイメージが盛り込まれ、語感よく、親しみやすい」などの理由から、また、「カタカナ・横文字多用の中、ひらがなを用いた点に意外性と新鮮さ」が評価され、『みなとみらい21』が選ばれました。
また、広く親しまれているブルーの円と2羽のかもめをモチーフとした『みなとみらい21』のシンボルマークは、1985(昭和60)年に応募数4,234点、総応募者数2,122人の中から芦原義信氏を委員長とした審査会で決定しました。応募作品全体を通して質の非常に高いものが多く、審査会では長時間にわたる熱の入った選考が行われ、デザインとしての優秀さ、ユニークさと実際の使用にあたっての再現性の両面から審査がなされました。21世紀の新都心「みなとみらい21」をイメージし、だれにも分かりやすく、親しみやすいということで、最優秀作品が選ばれ、作品の制作意図としては、円は「世界・地球・宇宙」を、ブルーは「海」を、2羽のかもめは「未来にはばたく」ことをそれぞれ意図しています。